わっしーのつぶやき 5月24日朝刊 卓上四季を読んで

冒頭、「近代哲学の祖」デカルトは知識について‥とあり、引き込まれた。というのも一時期哲学に興味を持ったからだ。哲学は学問の頂点に位置すると北大のとある教授に教えられ、私も哲学無き学問や事象は陳腐だと考え、その先生と思いを共有したことがある。卓上四季では、知識は他人の考えや自分の憶測ではなく、明白な「直観」と確実な「演繹」によって獲得されるとデカルトは考えた、と著書「精神指導の規則」を引用し伝えている。早速「直観」について調べてみた。というのも「直感」との違いを確認したかったからだ。直感は瞬間的に感じることで不確かさがある。しかし直観は瞬間的に理解できる確かなことと、私は理解した。さて演繹について、中学の頃か高校か忘れたが数学で「演繹法」と「帰納法」について学んだ記憶があるので言葉は覚えていた。三段論法の、事実を積み重ね「故に何々である」というやつだ。例えば、直観と演繹で新聞とは何かを理解したときに、それは知識となる。とデカルトは言いたのだろうか。最近世の中のすべてのものは編集されていると、新聞と関わりの深い「編集」を広辞苑で調べて気付いた。編集とは「方針や目的のもとに資料を集め新聞などの形にすること」と広辞苑に出ていた。新聞でなくても、あらゆるものが方針や目的の下に形づけられていると思う。「誰もが共有できてこそ真理と言える」とデカルトは説く。このコロナ禍の政府の方針や目的が真理かどうかは、国民が共有できるかどうかにかかっている、と卓上四季は言いたいのか。広辞苑を片手に読みながら、私には難しすぎるコラムだったが、久しぶりに哲学に触れる機会を頂いた。

 

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